四国の肱川流域で育った大江健三郎の作品は、その生れ故郷に深く根ざした
ものが多い。なかでも「懐かしい年への手紙」(昭和六十二年)は、わが人生
≠フ自己検証を試みた壮大な自伝¥ャ説、といわれるに相応しく、大江のふる
さととしての肱川流域の森や川を随所に読むことができ、作家の素顔を垣間見せ
る。その冒頭の文は、この作品が肱川流域の森や村を描いた大江の自伝小説であ
ることを予測させてくれる。
その秋、僕が生まれ育った森のなかの、谷間の村で暮している妹から電話が
あった。
大江健三郎(おおえけんざぶろう)は、昭和十年(一九三五)一月三十一日
、愛媛県喜多郡内子町大瀬(旧大瀬村)に生まれ、大瀬中学を経て昭和二十五年
内子高校に入学するも一年在籍し転校、松山東高校を卒業する。内子、松山東の
両高校ではともに文芸部に属し、作品を残している。昭和二十九年東京大学文科
二類に入学、二年後フランス文学科に進み、昭和三十三年仏文科学生であって芥
川賞受賞作家となった。 大江健三郎の作品は、書き手がフランス文学を学んで
いることもあって、その文体から始まって今までの日本文学とは違った新しい文
学であることに違いないが、ここに描かれている山村の風景は、紛れもなく大江
の生れ故郷の大瀬村であろう。新しい文学としての大江文学は、ふるさとの文学
として読むときもまた生きいきとした生命を持つ。人間の文化に求められている
ことは多様性であって、多様性そのものが文化であると言い切ってよく、文学で
は、この多様性は、作家の個性となる。多様な個性の創造が要求されるのである
。そして芸術家は、自らの個性を求め確かめようと自らのふるさとへ帰る。この
帰郷が現実のものであるか、作品上での虚構であるかは問わない。大江文学に描
かれた山村にふるさとの大瀬村を読み取ったならば、これも、大江文学の本源を
探る重要な作業の一つとみてよいであろう。大江の芥川賞受賞作品「飼育」は、
ふるさとを描いてこう書き始めている。 大江の生れ故郷の小さい村は、愛媛
県最長の河川、支流四百といわれる肱川流域の森林地帯にあり、この肱川流域は
旧大洲藩のほぼ全域に当たる。四国山脈の北側の森を流れる川、この森と川が大
江文学のふるさとであり、幕末には坂本龍馬も、土佐の国からここを通って肱川
河口の長浜に出て脱藩したという。大江の作品「燃えあがる緑の木」第一部(平
成五年)ではこう書かれている。
大江の初めての長編小説で、第一期の創作活動を締め括る作品となった「芽
むしり仔撃ち」(昭和三十三年)では
谷崎潤一郎賞受賞となる「万延元年のフットボール」(昭和四十二年)では
「同時代ゲーム」(昭和五十四年)では
「M/Tと森のフシギの物語」(昭和六十一年)では
自伝小説「懐かしい年への手紙」は、「Kちゃん」とよばれる作家の「僕」
が、その「僕」と、「僕」の子供の頃から現在に至る「師匠(パトロン)」であ
る「ギー兄さん」とを語る長編で、第一部六章、第二部十一章、第三部四章の計
二十一章が全てである。 「ギー兄さん」のモデルは、大江自身の長兄大江昭太
郎(大瀬在住の歌人)であると思われるが、大江は「著者から読者へ」という文
で自らの小説を語って「ギー兄さんが架空の人物である」ことをきっぱりと言い
切っている。また「長兄の体験にヒントをえて書いた部分」があることにも触れ
ているのは、文学作品の「虚構と事実」に関わって興味のそそられるところであ
る。 日常世界では、現実や事実といったことが重視されるが、個人の内面生
活に重点を置くとしたならば、そういったことよりも真実を見据え、真実を見極
めることが求められるであろう。「真実」とは、事実とは別の「虚構と事実」の
はざまにある。文学作品の真実は、そういったもので、決して作者の事実を殊更
暴き立てる必要もない。それでは、純粋に客観的な小説とは違い、作者自身の生
の事実との関わりが濃い自伝小説という小説では、その「事実」は、何の意味を
もつのか。それは、大江の言葉を借りると、「文章感覚のリアリティー」の問題
であろうし、「文章にこれがいま現在ぬきさしならぬ自己表現だという重み」を
出す必要からであろうと思われる。そして、これが「現代」の自己表現であると
言ってよい。 自伝小説「懐かしい年への手紙」には、大江のふるさとの森が描
かれているが、それは現実のものと深く関わりあっていても、やはり小説のなか
の森であり、これもまた小説にリアリティーをもたせるためのものであろうし、
「虚構と事実」のはざまにある。大江のなかの「ふるさと」を読み取ることは、
その文体上のフモール(真のユーモア)を読むことも加えて、大江文学解明の鍵
ともなるであろう。大江の「人間性」をより具体的なものとして捉えることがで
きるであろう。そして、現代社会の危機的状況のなかで急速に力を失ってきた文
学に求められているのが、この「人間性」であり、「人間らしさ」の回復であろ
う。