川本臥風と西垣脩 

                    
  (1)  

 川本臥風の本名は正良。明治三十二年一月十六日岡山に生まれ、昭和五十七 年十二月六日松山にて死去。旧制三高を経て、大正十二年京都大学独文科を卒業 し、旧制松山高校にドイツ語教授として赴任、昭和二十四年愛媛大学創設ととも に同大学教授となり、昭和三十九年定年退官、名誉教授となる。その間「石楠」 最高幹部、松高俳句会創設、「いたどり」創刊等の働きにより、昭和四十五年愛 媛県教育文化賞、昭和四十六年勲二等瑞宝章、昭和五十三年愛媛新聞賞を受ける 。著書は、句集に『樹心』(昭和二六年)、『城下』(昭和三四年)、『持田』 (昭和四〇年)、『梅本』(昭和五〇年)、『雪嶺』(昭和五八年)、学術論文 に『ゲーテと鴎外』(昭和五九年)、俳論随想に『俳論紀行』(昭和五八年)、 『宗教随想睡蓮』(昭和五九年)、などがある。 これが川本臥風の略歴であっ て、西垣脩は、昭和十二年旧制松山高校に入学、松高俳句会で川本臥風の指導を 受けた。「松高を選んだのは俳句修業のためだと答えて試験官を驚かせた男だ。 」という逸話を残しており、「結社で育った俳人と松高俳句会で育った俳人とは 本質的に異なる。自由旺盛な批評意識、純粋な詩作それが松高俳句会の特徴であ った」と語っているが、この松高俳句会は、川本臥風の文学の姿でもあろう。 
 臥風第一句集『樹心』は、大正十一年から昭和二十四年までの作品を収録。 大正十一年といえば、まだ京大の学生で、臼田亜浪主宰の「石楠」へ初めて投句 した年であり、句集第一句の    

 若葉蔭砂動かして水湧ける

を、臼田亜浪が「観照の態度が素直で、現実的でも」あると評しているが、こ の態度は、六十年を越える長い句歴のなかで少しも変わることがない。    

 摘まれゆく松の匂ひの松をつゝみ   
 かけ稲の穂先しづかにそろひけり  

 これらの句で、句集『樹心』は、期せずして俳壇での評価を得た。 第二句 集『城下』は、愛媛大学が誕生し、旧制松山高校が廃止された昭和二十五年の作 品から収録されている。この句集では、十七字のリズムが自在となり、句が更に みずみずしくなってくる。新鮮、青、白、光り、匂い等といった自然界の本源を 表わす言葉が巧みに使われるようになる。   
 
 のし餅の紅切るたびに新鮮に  
 桜昏しはげしき天の白光に   
 青空へまぎれてしまう落花もあり  
 鮎匂い鮎の山河を恋いわたる  
 向日葵をゴッホはしづかな色に描きし  
 柿の実の中より光りさすごとし

 この時期に主宰誌「いたどり」創刊(昭和二十五年)、臼田亜浪死去(昭和 二十六年)、「いたどり」の母誌「石楠」廃刊等が重なり、松山の地にいて臼田 亜浪とは別の独自の道を歩きはじめた。破調の句が多くなるのもこういった事情 によるものと思われる。      

  亜浪先生逝去  
 この冬空の下のどこにも先生亡し

 川本臥風独自の文学世界を知りたいと思う者は、まず句集『城下』を読むこ とから始めるがよい。 第三句集『持田』は、昭和三十三年から、愛媛大学を定 年退職した昭和三十九年までの時代である。定年をむかえる心は、意外に平静で 、身近な周辺や日常生活を心ひそめて見つめている。句が正直でつつしみ深くな ってくるのである。生活は次第にすっきりしたものになってゆき、浄化された世 界が現れてくる。   

 てんとう虫の背が割れ空へ一直線  
 蝶飛べりむかしの時間かもしれず  
 寒浄し床に白磁の観世音  
 アカシヤの白く大きな花に降られ  
 カナリヤはずむ七草粥を食い居れば

 第四句集『梅本』では、定年退職後の生活をうかがい知ることができる。昭 和四十年から昭和四十八年までの生活である。悠々自適とはいいながらも、かえ って身辺の変化多い九年であった。昭和四十五年に愛媛県教育文化賞、翌昭和四 十六年に勲二等瑞宝章を受けるも、昭和四十三年には思いもかけぬ大病で一時半 身不随となる。この病の平癒は、奇跡的だといわれ、こうした体験によって、川 本臥風の世界は、ますます深く清澄自在となっていくのである。  

 石が涸れ松垂れかかり寂光土

 「寂光土」とは極楽浄土のことである。臥風の芸術は、単なる技巧から生ま れたものではない。その宗教的体験から出た深い宇宙観が芸術観となっている。 「色即是空」が俳論となっているのである。もちろん宗教と芸術を混同している わけではない。截然と区別をしている。学問では科学者であり、俳句では芸術家 であり、念仏では宗教家である。それが、ひとつの人格で、ひとつの統一された ものとなっており、そういった現れは、川本臥風がゲーテや鴎外のような「宇宙 的人間」であることの証左となっている。芸術と宗教が矛盾してはいないのであ る。宇宙的頭脳は、その知識内容が、無限に多様化し、複雑化してくるので、混 乱におちいらないために、その複雑さを統一し、単純化する必要がある。そこで 「浄化」ということが考えられる。清澄自在の境地である。川本臥風の場合、こ の「浄化」という精神活動は、俳句を作るということなのである。   

 わが一本の桜も小さき花ふぶき  
 雲雀しばらくあるく我等の行く先を  
 きらりきらりつばなが草を抽きはじむ

 なお『梅本』の制作は、松山に帰省中急逝した篠原梵(元中央公論編集長) の最後の仕事となった。梵は川本臥風の旧制松山高校での教え子である。 川本 臥風最後の句集となった第五句集『雪嶺』は、昭和四十九年から昭和五十六年ま での句を収録したものである。大正十二年以来、半世紀を越える長きにわたって 続けてきた大学関係の仕事からすっかり身を引いているが、この句集を読むと、 あまりにも教えられることが多く、教育者としての川本臥風の偉大さに気付く。   

 初明りしたまいて慈母観音像

 これは、本句集固有のものとみられる句で、こころの向いているところを明 らかにしている。昭和四年ドイツ留学から帰国して以来深く入っていった念仏の 世界と関わりがあるとみてよいであろう。   

 半面に紅刷きふきのとうの球みどり  
 鉢に土筆数本にして野のさまを  
 花ござの藺の香芬々たる上に  
 稲みのらすぬくさの中に我も立つ  
 母なる大地ここは雪の下に 

 川本臥風の句には、以前から身辺を詠んだものが多いが、こころが澄んでい るので、感覚が自在に働き日常の現実から浮き上がっていないのがよい。色彩感 覚の鋭さも生来のものと思われるが、その色彩のみずみずしさに驚く。   

 すだちのしまったかたまりが内に酢を  
 抹茶のみどり白い夏のものにしみつき

 これらは、文語定型にこだわらずに日常のことば、いわゆる口語体を使い、 独自のリズムを生み出しており、集中最も個性的であると思われるもので、次の 世代にのための大きな遺産であろうと思う。   

 安らいてみのりの秋にとりまかれ

 これは、本句集に採録されてはいないが、臥風最後の句である。   

  (2)

 西垣脩(にしがき・しゅう)、本名は脩(おさむ)と読む。大正八年五月十 九日大阪に生まれ、昭和五十三年東京にて死去。旧制住吉中学、旧制松山高校を 経て、昭和十七年東京大学国文科を卒業し、昭和二十九年都立武蔵丘高校教諭か ら明治大学助教授となる。昭和三十五年教授となり、死去に至るまで同大学に在 職。その間、教育研究、詩、俳句など多方面にわたって活躍する。昭和三十二年 の俳誌「皿」の創刊・主宰をはじめ、詩誌「山の樹」、「青衣」の創刊、現代俳 句協会賞と日本現代詩人会H氏賞の選考委員もつとめる。その業績は、大岡信等 の友人の手によって死後三冊の著書にまとめられ角川書店から出版された。西垣 脩句集(昭和五十四年)、西垣脩詩集(昭和五十五年)、風狂の先達(昭和五十 六年)の三冊である。 これが西垣脩の略歴であって、俳句と詩の双方にまたが って活躍した詩人に、たとえば木下夕爾と安東次男がいる。西垣脩の詩作や句作 は中学生のころから始まったと思われるが、詩人としての出立は松山高校時代と みてよいであろう。西垣脩詩集の第一頁を飾る詩はこうである。  

  桜花恍爛として春に耐へたり 
  桜花恍爛として春に耐へたり  
  静かなる感情のたかぶりきて 
  泉の如くわが胸を震はせて湧き 
  そが中に我が口はすでに溺れうせぬ  
  掌自ら合はさり 
  そが尖より虚空へ噴き出づるもの―― 
  何千年昔より我身に流れ込みたる血 
  見えざる生命の清冽なる噴泉  
  桜花恍爛として春に耐へたり 
  桜花恍爛として春に耐へたり

 この詩の初出は「松山高校三光寮誌」(昭和十三年)で、すでに松高俳句会 に入り、川本臥風に俳句の指導を受けていたが、この詩には、日本浪漫派を代表 する詩人伊東静雄の文学を受け継ぐものとしての抒情がある。文語表現の調べを 生かした日本の抒情で、ことばの流れに乱れがない。西垣脩の行き着くところは 、「見えざる生命の清冽なる噴泉」であり、こう歌う詩人のこころは、終生一つ のものを求めていたのであろう。それは、「健かに優雅なクラシズムと清新にし て豊醇なロマンテイシズムとの結婚」という夢であり、その実現のための俳句と 詩であったと思われる。その実現のためにこそ俳句と詩の双方にまたがっていた のであろう。西垣脩の夢が発展した文学理念と思われるものが「俳句発想のノー ト」(昭和二十四年)という文にある。そこには日常生活での穏やかな西垣脩に は見られない凄さがある。「嘱目発想」、耳目にふれるものを調べにのせるとい った「嘱目発想」をこう語っているのである。求心的すぎる性格ゆえにて の性根の浅さが遠心的に流される傾向を与えていた。「嘱目発想」という形 式で風景を歌うということは、「単なる自然賛美」ではなく、つまり「生の確認 」であり、「生きていることを感知するよろこびを味わう」ことでもあろうと思 う。「生命の清冽な噴泉」が問われているのである。              旧制松高時代の俳句に   
 
 どの窓も麦畑のある部屋借りし  
 梨をむくナイフに空の青去らず

といった秀句があるが、この時代の代表句には   

 麦笛を吹き帰城せり皆死なず

を取り上げたい。この句は、日華事変の最中の昭和十四年春に松山高校宣撫班 の一員として戦場をめぐっていたときのもので、作者はまだ十九才の高校生だが 、すでに高い水準にある。句の良さは、その品格にあり、戦場という修羅場にあ りながらも、友をおもう人間らしい心情に深く感動する。西垣脩は、旧制住吉 中学では詩人伊東静雄に、旧制松山高校では俳人川本臥風に学び、その影響を受 けている。臥風第一句集『樹心』に寄せる覚書で「人間性に対する信頼感」を取 り上げ、こう結んでる。  

 要するに、  生き方こそ、今一番難解な生き方でもあろうから。

 「今一番難解な生き方」、これこそ「人間らしい」生き方であり、川本臥風 の、そして西垣脩の生き方でもあったと思われる。西垣脩の「麦笛」の句は、 日華事変の中国大陸で作られたものだが、激しい戦さの時代の「人間らしい」風 景を詠んだ俳句といえば、明治二十八年の日清戦争での子規、鴎外の句を思い起 す。   

 なき人のむくろを隠せ春の草         子 規  
 一匹の蛍嬉しき野宿かな           鴎 外

 その頃、中国大陸の金州にいた軍医部長の森鴎外を、正岡子規は毎日訪ねて おり、そこで、二人が戦さのなかでの「人間らしい」作品を残しているのを嬉し く思う。 西垣脩は、三年間の高校生活を終え、昭和十五年松山を離れ東大国文 科に入学する。その頃川本臥風の誘掖により、臼田亜浪の「石楠」に参加、松高 俳句会出身の篠原梵らと句作に励み、「石楠」新人として嘱望される。代表作は 、「石楠」終刊の昭和三十一年に沢木欣一の「風」に参加した頃から、両親を相 次いで亡くした昭和四十年頃までの十年間に発表されたなかにある。   

 さやけくて妻とも知らずすれちがふ  
 鴨とほく泛けり睫毛に風おぼゆ

 晩年の代表作といえば、ためらうことなく次の句を撰ぶであろう。   
 馬が来る背の荷の歯朶もさやさやと

 これらの句は、完成度が高く、西垣脩の代表作には違いないが、それ以前の 青年期の作品に注目したい。詩人としての瑞々しい感性に心惹かれるのである。 それらの句には、「健かに優雅なクラシズムと清新にして豊醇なロマンテイシズ ムとの結婚」の夢があり、それらの句は、西垣脩の「見えざる生命の清冽なる噴 泉」と読むことができる。詩人は、その行為でもって、「生の確認」を、つまり 「生きていることを感知するよろこび」を味わっているにちがいない。   

 草ひばり色なくなりし空に鳴く  
 冬了るレモンを水にしたたらす  
 急行の速度に入れば枯れふかし  
 生牡蛎の胸を落ちゆくさみしさ堪ふ  
 片蔭をうなだれてゆくたのしさあり

 これらの句からは、読者の誰もが、西垣脩の「俳句に対する信頼感」、「人 間性に対する信頼感」を読み取ることができるし、それを認めてこそ、これらの 句の本質にある良さを理解することができるのであって、この「信頼感」は、間 違いなく川本臥風の「人間性に対する信頼感」を受け継いだものであろう。  

  (3)

 大江健三郎の「あいまいな日本の私」という題のノーベル賞受賞記念講演の なかで、見逃してはならない重要なところといえば、大江の「私」にかかわるヨ ーロッパのユマニスム(人文主義)であろう。この講演は、「人類の全体の癒し と和解に、どのようにディーセントかつユマニスト的な貢献がなしうるか」とい う文で括っている。川本臥風と西垣脩の「人間性に対する信頼感」を大江の言う 「ユマニスト的な」ものと比べてみるのも、私たちの人生と文学にとって大いに 得るものがあろうと思う。 ドイツのノーベル賞作家トーマス・マンにとっても 、オランダのエラスムスに代表されるユマニスムが大きな課題となっていた。ヨ ーロッパのユマニスト達に教えられて、戦争の時代をナチと戦い、民主主義の勝 利を疑うことがなかったのである。「文学のすぐれたものは、なにより僕らに励 ましをあたえる。」(新しい文学のために)と言う大江は、このトーマス・マン にも「救助」をもとめ「励まし」をあたえられた。「僕は深く気が滅いってくる と、医師トルストイ、ドストエフスキー、あるいはマンに救助をもとめる。」( 『個人的な体験』から『ピンチランナー調書』まで)と告白する。トルストイ、 ドストエフスキー、あるいはマン、これらの作家の長編小説に描かれた人物の人 間らしい生き方を見て励まされたのである。 トーマス・マンの影響を受けた日 本の作家に三島由紀夫がいるが、人間性を取り上げると、この両者の隔たりのあ まりの大きさに驚く。三島の文学は、マンの二元論の影響を受けたというものの 、マンとは違った展開を見せた。三島は、知的に、あるいは美的に昂揚しすぎた ために、人間性の問題意識が薄れてしまうのである。こういった人生と文学に関 わる問題では、マンに近いのは、三島でなく、大江であろう。文学作品に現れた フモール(真のユーモア)を取り上げてみても、大江は、マンに近いとみてよい 。フモールには、一つの前提がある、ということを見逃してはならないであろう 。まったく悲劇的な場面でさえも、フモールがある、ということで、フモールを 失った三島とは違ってマンと大江には、現代社会の危機的情況のなかでも、それ がある。これこそ本当の人間らしさであり、そこには、人間の未来への救いが確 かにある。 芭蕉の「滑稽」は、マンの「フモール」と異なるところも多いが、 それらの切羽詰まった厳しさを見逃してはならない。芭蕉は、自らの人生と対決 し、「こころをせめる」が、マンは、現代社会と対決し、ナチの非人間性と戦っ たのである。滑稽とフモールは、こういった厳しさがあってこそ生まれたもので 、文学の遊びなどでは決してない。読み手に「励まし」をあたえるもので、「救 い」がある。西垣脩に与えた臥風の「人間性に対する信頼感」もこういった奥深 いところからくるもので、臥風第一句集『樹心』に寄せて西垣脩は「主体性」の 問題に深く関わってこう語る。詩や芸術で重んじられる独創性は、俳句では「主 体性」ということになる。   

 どんな意味でも先生の作品には野心的な味がまるでない。しかし先生の世界 からまさに流露している という意味で、独自のかけがえのない芸術的香気が歴 然とある。それが、今日ではむしろ僕たちを元 気づけてくれる。自分の生の問 題と結びつけて所謂主体的に句作するところに現代俳句の特徴がある のだそう だからである。 
 臥風作品は何物にも障げられずに流露してゆく。作者の願望も実はそこに在 るのであった。問題は、そういう流露感が僕たちに与える、俳句に対する信頼感 、むしろ人間性に対する信頼感なのである 。

 川本臥風と西垣脩を結びつけたのは、「人間性に対する信頼感」である、と 言い切れるが、俳句を軸とすれば、臥風は念仏に、脩は現代詩により傾いていた と理解してよい。これも人間らしい生き方の現れであって、西垣脩の言葉にある 固有の感性のよさは、それを共有するものにしか見えてこないし、臥風の文学に みるその境地は、そこへ近付いていく者にしか理解できないものであろう。臥風 と脩の文学に共通する「美しい挫折」も、「今一番難解な生き方」からよってく るところのものであって、後に続く者たちはその「挫折」したところから歩き始 めればよい、と指示してくれる「人間らしい」指針でもある。 西垣脩の求める ところは、「見えざる生命の清冽なる噴泉」としての言葉、つまり生命の具象的 結晶としての「詩」であり、川本臥風の求めるところは、「地上浄土」を打ち建 てることにあったと思われる。浄土宗系の光明会の「光明」(昭和二十六年)に 載った川本臥風の文章はこうである。  

 理想なくしては、人間は一日も暮すことはできないし、民族は団結すること ができない。今迄日本民 族は、兎に角帝国主義の理想の下に結合していた。今 や一旦それが崩壊した時、それに代って民衆を 結合すべき理念を、一刻も早く 与えなければならないと。その夜の日記に私は「地上浄土建立」と書いた。                          

 この「地上浄土」は、地上楽園のことでもあろうし、おそらく、ゲーテが「 フアウスト」の終末近くで述べているものに通じているのであろう。  

 自由な民と共に、自由な土地の上に住みたい。(鴎外訳)

 また、ベートーベンの「第九交響曲」の世界にも通じているのであろうと思 う。その第四楽章での合唱は、「おお 友よ」という親愛のこもった呼び掛けで 始まり、その最終行では「星々のかなたに神は必ずやおわしますのだ。」と神の 存在を確信して歌う。これは、地上楽園の世界に違いない。トーマス・マンは、 長編小説「フアウトゥス博士」のなかで「第九交響曲」を、「人間的なもの」と 呼び、「善であり高貴であるものだ」と答えている。 川本臥風の俳句も、西垣 脩の俳句も、「人間的なもの」であって、「善であり高貴であるものだ」とみて 間違いないであろう。   

 初明りしたまいて慈母観音像           臥風  
 生牡蛎の胸を落ちゆくさみしさ堪ふ        脩
 海外での俳句が近年ますます盛んになってきているが、それらのなかには、 臥風と脩の文学にある「生の確認」や「人間的なもの」を求めての行為であると 思われるものがあり、何よりも嬉しい。
 なお、左に列挙した私の著書、論文も併せ読みいただければ幸いに思う。

※著書
 比較俳句論序説(青葉図書・昭和五五年)
 俳句のリアリティ(青葉図書・昭和六三年)
 Das Haiku heute und seine Kriterien (編著・青葉図書・平成四年)
※論文
 トーマス・マンの故郷(ドイツ文学論集・昭和四二年)
 「魔の山」における中間のイデー(愛媛大学紀要・昭和四一年) 
 フアウスト博士における《Das D、monische》について(愛媛大学紀要・昭和 三九年)
 トーマス・マンと神話(愛媛大学紀要・昭和四二年)
 トーマス・マンと三島由紀夫(愛媛ドイツ文学第八号・平成元年)
 現代社会における文学の運命             
  ―トーマス・マンと三島由紀夫そして大江健三郎―(水煙・平成四年一月 号)
 ふるさとの森と川を読む  ―大江健三郎の作品より―(水煙・平成六年六 月号)
 現代という虚構と事実  ―大江健三郎の自伝小説―(水煙・平成六年八月 号)
 詩人のこころ  ―思い出の句集・川本臥風『城下』―(俳句研究・平成四 年一月号)
 俳句郵便局「昭和」  ―西垣脩の俳句―(角川俳句・平成四年十一月号)


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