NPO法人水煙ネット


■高橋正子の書評/句集を読む■

▼句集T
坪内稔典句集芸林書房2003年10月刊朝吹英和句集『青きサーベル』ふらんす堂2003年4月刊秋尾敏句集『私の行方』沖積舎2000年6月刊

▼句集U
岡本のりを句集『やさしき狼』近代文芸社2000年6月刊野田ゆたか句集『行く春』2003年8月刊碇 英一句集「冬満月」藤田洋子102句集霧野萬地郎句集「サファリ」北村ゆうじ句集「初商い」相原弘子句集「気流」

▼句集V
西垣 脩著『西垣 脩句集』角川書店昭和54年6月刊篠崎圭介句集『花』糸瓜社2004年3月刊

▼俳書
藤田真一著『蕪村』岩波新書●小野圭一朗著『句碑を訪ねて歩くおくのほそ道』朝日文庫● 





■篠崎圭介句集『花』■
(糸瓜社/2004年3月7日刊
 274頁/定価3000円+税)

篠崎圭介句集『花』は、桜ばかり二三三句からなる句集で、花の季節が
待たれる著者の誕生日の三月七日を刊行としている。あとがきに言う。
五十歳代から作り始めた桜の句は、当時の心境もあってか、美しさより
も妖しさや異様、いわば暗い側面に目がむきがちだった。還暦を過ぎた
ころから、素直に対し、虚心で桜と向き合い、そこに生じる何かを丁寧
に見とどけたい。桜の諸相をとらえることを、壮年から老年にいたる一
人の男の内面がいささかでも表現されているだろうか、と。つまり、著
者は、桜に対峙し、壮年から老年にいたる一人の男の内面を表現しよう
と意図したのである。そのために、桜を訪ねる旅もする。その意図に誘
われ、桜の二三三句を読めば、新古今のような、幽かな世界を広げる。
そこに男の内面をいかように汲み取ろうか。すでに魂は幽かである。魂
はこの世を抜けて冷ややかに存在する。ここにあるのは、正岡子規の革
新した俳句の近代ではない。正岡子規の革新によって俳句はあたらしく
近代の文学としの命を吹き込まれたのであるが、愛媛の俳句を代表する
著者の句は、まさに新古今の再評価ということであろうか。日本の美の
美しき再現にしばし時を止められる思いである。

夕桜われとどまれば揺れにけり
濤音の月日のしだれざくらかな
桜暮れたり暮れ残るもののなし
桜ひともと点るごとしや国ざかひ
法皇山(ほうおう)の襞に雪置くさくらかな
夜のさくら鳥が溺れに来てをりぬ
岬の風捨身の花と言うべしや
全山さくらぞ溺れたし溺れるべし
山のこぶし山のさくらと咲きて土佐
花了えしさくらの影にしてそよぐ
ももさくらあんず遠嶺に雲なき日
鳥の来て朝日子も来て花三分
旅遠し日暮れの色のさくら見て
月出るらし桜千本さんざめく
風の桜ことに日裏の吹かれゐる
北国の夜空のあをき桜かな
湖のしづけさ花のしづけさもて囲む
花了へし木のしづけさよ背をもたす
みづうみの北のはづれの桜の芽
影をしづかに置けり冬木の桜なる
(2004.2.5)

坪内稔典句集■
(芸林書房/2003年10月20日刊
 128頁 定価1000円+税)

第一句集『朝の岸』(1973年)から第九句集『月光の音』(200
1年)までの九冊からの選集で、解説は仁平勝が書く。稔典俳句には、
塚本邦雄が言う「狼藉」と「眞顔」の二面性が確かにあるが、仁平の解
説は「狼藉」の句に終始して、「眞顔」の句については触れていない。
つまり、それはこういうことだ。明治の近代化は、社会に清新さを呼び
込み、近代文化を育んでんできたが、1965年あたりから、経済の発
展に伴い、日本は大衆社会となり、マスコミの発達と相俟って大衆文化
が発達した。大衆社会は、テレビのバラエティショーなどが顕著に示す
ように、「狼藉無頼」を放映し、そういったものが人気を博した社会で
ある。これはまぎれもない事実である。稔典の俳句は、この社会状況の
変化に乗って、「狼藉」の句においてマスコミの寵児となったのである
。従って、仁平はこれをのみ取り上げるのである。では、その「狼藉」
と言われる句を紹介しよう。

鬼百合がしんしんとゆく明日の空
春の坂丸大ハムが泣いている
あちこちにトリスがしゃがむ曼珠沙華

これらの句を一般な読み方、たとえば、京都大学文学部編「知のたのし
み 学のよろこび」(岩波書店2003年)にある文学部の専門家のテ
クストの読み方に従って読むと、まるで謎というはめになる。これらの
句の読み方の指定は、創作の時点においては作者にあるが、ひと度作者
を離れると、それは読者にある。そこに示された言葉は、その言葉の属
性すべて包めて読むのである。読者の恣意性を、言えば、作者の恣意性
に変換しているので、一句の多義性によって、決して作者の本心は窺が
えないのであり、窺わさないのである。あるいは、本心はないのかもし
れない。仁平は、塚本邦雄の「鬼百合」の句評を次のように紹介する。
「狼藉を極めた文體の中に時として眞顔になった作者が立ちすくみ、わ
れ二十一世紀に向かつて俳諧をなすと喝を稱へてゐる・・・」仁平の解
説によれば、鬼百合は、狼藉を極めた者を指す。鬼百合の赤い斑点のあ
る花のイメージはもちろん、鬼百合の「鬼」の指すものを引き出して読
めという。丸大ハムは、丸大ハムが泣くとは、お使いの途中に、坂道に
ハムを転がしてしまって泣いている少年のイメージである。私評を加え
れば、丸大ハムは高級ハムではなく、大衆ハムで、さらに幾分コミカル
な太った豚をイメージさせる。それがあまりに哀しいではないか。トリ
スの句は、トリスウィスキーのトリス。トリスを飲んだ酔っ払いが、朝
帰りに曼珠沙華の咲くあたりにしゃがんで反吐でも吐いているのか、自
失で立てないでいるのか、であろう。おかしさや面白さを誘う。これが
本気の句であれば、こういう絵は哀しいが、エンターテイメントである
。

また、稔典の句には、オノマトペの多用がある。次の句などがそうであ
る。こういう句は、声に出して読めば、あるいは、目で追えば、説明な
ど要らぬ。音のたのしみ、それから連想される田舎のやんちゃ坊主のあ
んぽんたん。たんぽぽの句では、清水哲男は、「ぽぽ」に火で焼けた縮
れ毛を連想すると読む。ミケランジェロのダビデ像を思い起こせよとい
うのか。狼藉を好む人には、なんともおもしろい句であろう。好まない
ものには、後味が悪いのであるが、これも作者の狙うところであって、
後味の悪さを感じれば成功である。狼藉とは、そういうものである。

春の風ルンルンけんけんあんぽんたん
たんぽぽのぽぽのあたりが火事ですよ

これまでの俳句は、俳句という語が相応しいかの疑問が残るだろうが、
それは、今問わない。これらの句は、大衆的であって、マスコミ受けし
たのである。ここにいうマスコミとは、テレビ、新聞、雑誌である。当
然インターネットは含まない。以下では、これまでほとんどマスコミが
取り上げなかった「眞顔」の句を拾ってみる。われわれは、マスコミに
よって必ずしも評価され、リードされない場合をもってよい。稔典の学
生時代の句で私の印象にあるのは本句集にはないが、山羊の句だ。それ
は「眞顔」の句である。やがてそれが、「狼藉」の句へと発展進歩し、
前衛俳句のようにメタファーを使うのではなく言葉の属性を発揮させた
との評価があるが、俳句の伝統から言えば、「眞顔」の句に稔典のかけ
がえのない土着の風土を見、詩性を発見するのである。稔典俳句のよさ
は、その詩性であると言ってよいだろう。「眞顔」の句は、一般的な読
み方で十分だろう。(テクストの読み方について、最近は批評家の間で
問題となっているようであるが、今それを目的としない。)

ひっそりとベら棲む明るさ父母の島
湯ざらしの鱶(ふか)食べる音死者の家
野菊また国家の匂い千々に咲く
闇もまた垂直に立つ杉林
蝶までの距離と言うべし春の泥
朝五時のひかりのままにこの薔薇は
棟上げの柱の向こう麦熟れる
炎天のわれも一樹となっている
睡蓮に誰もが遠くなるまなざし
そうめんともうきめている青田道
裏山がすぐそばにある盆休み
白鳥のいたはず春の水平ら
水無月のひとりぼっちの金魚A
十月の蝶氷片の響きして
月光の折れる音蓮の枯れる音

著者に「眞顔」の俳句があることによって、詩人としての資質が明らか
になっている。著者はまぎれもなく二十一世紀の日本の詩人の一人とな
った。
(2004.2.10)


■朝吹英和句集『青きサーベル』■
(ふらんす堂/2003年4月28日刊
 180頁/定価2400円+税) 

 端的に言えば、「精神の高みを句表現へ」、ということであろう。
あとがきにある「常に自らを戒める剣を携えた精神の騎士でありたい
」という「青きサーベル」なのである。句を始める以前に、音楽によ
って会得された素養としての高い精神があって、それを、俳句でどの
ように表現していくかが、ひとつの重要な課題となっているのであろ
う。当然ながら、空間と時間を満たす音のなかに、高い精神性を読む
。バッハの音楽に満ちる「時の完熟」感を冷やす唐辛子の色。息を吹
き込まれたフルートの音色が、冬の地平を開いてゆくときの室内にあ
る薔薇。実際の音楽を聴くような楽しみがあって、配された唐辛子、
冬薔薇の象徴性によって俳句となったといってよい。ヴィオロンの音
色を三葉芹に象徴させる句は上田敏の訳詩集「海潮音」の時代を思わ
せるような雰囲気で、小品を聴く楽しさに似ている。楽器の音色を言
葉に置換して成功しているのも著者ならではのことだろう。
 もうひとつの傾向として、先に述べた句に劣らず、それらの句に混
じって、むしろこちらの方が自然への切り込みが深く、「写実から象
徴へ」という草田男の教えが生きていると言っていいと思うが、静か
な輝きをもつ句がある。それらの句は、日本人の底流にある個の内面
のさびしさや揺れを、西洋と日本が微妙に混じる少し不安定で繊細な
語で、感性的に表現している。読むのに感性を必要とされる句集であ
るが、精神の高みへと読者を誘ってくれる久しぶりの句集である。印
象に残る15句を挙げる。

バッハ鳴る時の完熟唐辛子
フルートの開く地平や冬薔薇
風花の風間に現れし十字架(クルス)かな
重奏の金管沈む冬の水
ヴィオロンの幽けき震へ三葉芹
中空にフルート抜けし花辛夷
水兵の縦列美しき五月来る
畳屋の糸引き締めよ草雲雀
剣山に怒涛の雪解ありぬべし
母の忌の雪解雫の頻りなる
罷り出る太郎冠者から陽炎へり
走禽の鋼の腱や春田打つ
軒下に晒す産着や秩父春
種浸す水やはらかく眠りけり
帰省子の浮き足並ぶ夜汽車かな
(2004.1.25)

秋尾敏句集『私の行方』■
(沖積舎2000年6月20日刊
96頁 定価2500円+税 )

著者は俳人河合凱夫の長男として生まれ、凱夫の死後、「軸」を引き
継いで現在に至っているが、句集に先立って詩集をもつ。句集『私の
行方』は、90年代の10年の句をまとめた処女句集で、「軸」の主
宰を引き継ぐにあたって、自らの俳句の進む方向を示したものと思わ
れる。主宰になる以前の句であることから、いろいろを俳句に試みて
おり、その内容によって、章立てをし、オムニバス風な仕立てである
。「あとがき」には、自身の句の読み方の指南があって、読者に想像
力と再構成力があれば、この句集は、シナリオにも私小説にもなると
言う。しかし、読者は読者の言語ルールで読まざるを得ない。秋尾敏
の句は、その言語によって特徴的であるといえる。内容は言語に依存
している。時代の反映もあってか、乾いた言語で、暗く共闘的である
。それらの言語と季語との噛み合わせが微妙で、無季もあるが、季語
によって俳句として存立している言えよう。それらの言語を眺める方
が、作者の理解には早いのである。その特徴的な言語を句より拾う。

第1章「Mr.J」より 
空爆・黄色い顔・逃走・神話・平衡感覚・狙撃・砂漠・過剰・死語・
都市・鍵盤・接続・円環・俯瞰・物質都市・失語・低気圧・蕁麻疹・
地殻・極東地図・酸性霧・夜光虫・深海魚・金属・猫・中央分離帯・
亜細亜・転送・魚座・インターフェイス・沸騰・帰宅列車・無言・毛
根・占領・逆襲・老婆・脳・記憶・柩列車・鍵穴・病む・離散・未来

第2章「口語の冬」より
瓶世界・妖怪・切断・黴・這う・乾電池・ティッシュ・猫・狐・呪縛
・零・悦楽・左手・惑う・告発・ネス湖・幻想会議・感傷・口語・文
語

第3章「地球の季節」より
珊瑚虫・洞穴・時間軸・老婆・暴走・柔軟・離散・仮想・記憶・白い
翼・悠久・判断停止・自己相似・被写体・逆光・幻・追憶・助走・普
遍性・地球・半球・空軍・磁力線・磁力・脱皮・白い脈動・白い消失
・骨格・白い風

第4章「私の行方」より
撃て・私は消える・言葉・宇宙船・散乱・打鍵音・週刊誌・蛇苺・踞
る・水性塗料・非常階段・乱声

次にあげるのは、乾いた言語を掻い潜り、敏の人間的な心境が現れて
いる句で、俳句が心境の文学とし敏の内にも成立しうるものであるこ
とを示している。また、時に湧出る景色が利根川であり、水の景色が
敏の原風景であることも窺がえ、これも人間的な側面を見せている。

八朔食う過剰表現の顛末に
ビルに鍵盤接続すれば春の音
水門に白く泡飛ぶ稲穂原
昨日よりビルを埋めて風若葉
種蒔くや朝日のように穏やかに
雪残る寺は光を遠のけて
風穿つもの携えて冬の鳥
風切って鳥の暖みの放たるる
海渡るそのとき水は磁力線
黍畑のどこまで海のある限り
橇引けば五匹の影の重なりぬ
  父、腹部大動脈瘤にてオペ三句
薄明のガラス囀り遮りぬ
春は階段昇るも降りるも
瞬けど座る人なく春の椅子
枇杷ひとつ浮かべて夜のステンレス
ふと教師黙せり風に欅吠え
箱眼鏡私の行方漂える
実在へ蛍は息を整える
菜の花の四方を向いて風に立つ
水追って水回りゆく春の堰
(2004.2.14.)


戻る