句集の跋/水煙俳句叢書

[信岡資生/句集「旅衣」] [柳田征司/句集「旅衣」][高橋正子/句集「旅衣」] [戸原琴/句集「空の青」]


 


青の彩り/信岡資生



 「伊予の松山」と聞けば、そこへ行ったことがなく
ても、すぐ温泉と俳諧を連想し、子規や虚子の名を思
い浮かべる人は多いであろうに、松山に十二年も暮ら
しながら、道後の湯は満喫しても俳句の道を素通りし
た私は、風流のたしなみに欠けた、不粋な人種と思わ
れてもしかたがない。その私に俳諧のメッカ松山を忘
れるなとばかり、二十年間続けて『水煙』を送りつけ
てくるのが高橋信之である。彼との出逢いの場は、私
が駆け出しの講師として赴任した愛媛大学キャンパス
であったが、年齢の接近もあり、やがて彼も私と専門
を同じくして母校の教授職に就いたため、私とは師弟
というよりは同僚の仲である。彼をよく知るとは言え
、門外漢に彼の俳句を語る資格のあろうはずがないが
、敢えて一人の読者として感想を述べさせていただく。
 ひとしお感じるのは、そこかしこに映える明るくて
深い青の彩りである。新緑の青葉はもちろん(校正の
ファックス届く窓に青葉)(すくすくと育つものあり
青葉の京に)、空も(空青く拡がる下で大根蒔く)、
海も(海青あお記憶の夏と一つになる)青いのはいう
までもなく、野も青く(降りてゆく青野のなかの滑走
路)、川もあおあおと流れ(川あおあお流れあざみの
群生に)、風も音も匂いも青いし(大杉の芯を鳴らし
て青あらし)(城打ちて空へ吹き上ぐ風青し)(とま
と苗植え手に青き匂いが移り)、瓦も青い(秋天の瓦
の青し直哉の居)。作者が見、聞き、触れる対象その
ものが青いというよりも、彼がそれらを青く受け入れ
、青く昇華させて表出するのである。それも、気負い
も見せず、技巧を凝らすこともなく、自然体のままで
ある。その青は、鮮やかな群青から淡麗なコバルトブ
ルーないし白藍まで綾があり、寂しい周囲の中で明る
く引き立ち(暁けてゆく空のさやけき青に会う)(車
窓の山黄葉とその上の青空)、厳しい環境の中で凛と
して冴える(冬天の青のひたすら一枚で)(はつふゆ
の空映る池生きいき青し)。またしばしば、くすみが
かかり、ほのかな暗さが加わる深いセレストブルー、
パウダーブルーともなって(夏空の青く暮れゆき青き
児の眼)(湾岸戦火青一色の寒の空)(夏暁午前四時
濃く青く富士の山)、作者の繊細で絶妙な感受性の幅
の広さと奥行きの深さを示している。
 青には、学生時代の高橋信之の若い相貌がオーバー
ラップして、未熟な白面の青年の抱く茫洋とした希望
、不安の混じる淡い前途への期待がのぞいて見えてく
る。「青い花」がドイツ浪漫派の憧憬の象徴であるよ
うに、「青」は捉えようのないもの、漠然とした可能
性、永遠の未完成の代名詞である。高橋信之は旅衣を
解いても、どこか心の隅でなおまだ「青へのあてどな
き旅」(eine Reise ins Blaue)を続けている。彼の
句に青の影を見取ると、懐かしく、また安堵してその
行くえを見据えている私である。

  

 


高橋氏の一読者として/柳田征司



 本書の著者高橋信之氏と私は、大学・大学院の同窓で、長
く愛媛大学の同僚でもあった。面識を得たのは確か大学院受
験の折、六一年のことであるから、もう四十年以上の歳月が
流れたことになる。しかし、氏の選考はドイツ文学、私は日
本語の歴史と、研究分野が大きく違う上に、年齢も十年近く
離れていることもあって、出会えば、あの満面の笑顔で近況
などを尋ねてくれるといった、そういう関係であったかと思
う。それが、八二年のゲーテ忌に氏の主催で開かれた朗読会
に偶々参加し、氏の自作の朗読(小説「アベルの血」、詩「
そのときどきに」、俳句十四句「死」「存在」)を聞き、紹
介の一文(『愛媛国文と教育』14・15合併 八三・七)
を書いたことが一つの縁となって、『水煙』を愛読させてい
ただくこととなった。七年前奈良女子大学に移り、激務にあ
った時も愛媛から毎月届くさわやかな明るい風に救われて来
た。
 はじめに「十年近く離れている」と書いたが、この度、本
書の原稿を一読して、私は『研究者総覧』で氏の年齢を調べ
なくてはならなかった。氏が私よりもかなり年上とは思って
いたけれども、十年近くも離れているとは思っていなかった
。専門のドイツ文学は勿論のこと俳句の世界でもそれぞれに
重要な役務を果たし、日本だけでなく国際的に活躍して来ら
れながら、氏は、文学に生きる人としていつも恬淡としてい
て、権威で人を圧倒するようなところが全くない。だら若々
しい精神の人という印象があったのだが、氏の年齢を確かめ
、氏の六十歳代を中心とする作品をこうしてまとめて読み、
その若々しい精神に改めて感動した。
 作者は難解なことばは一切用いず、やさしいことばを用い
、そのことばに可能性として内在する働きをさまざまに目覚
めさせる。
  雪山を遠くに置いて子と遊ぶ
   八月二十一日クーデター最中のモスクワ空港
  夏を逝かすここでも明るい少女の顔
  風薫るなかのふるさと大連は
  刃物入れられ柿の朱がまた新鮮に
  つやつやと小豆が煮えて三日なる
   ヴュルツブルク
  夏に芯あればそこより鐘の鳴る
「置いて」「逝かす」という意志動詞の使用、「大連は」の
「は」の用法、「入れられ」という視点、「三日なる」「夏
に芯あれば」という表現等々。夏の午後、異国の街の広場に
たたずむ作者に折りしも鐘の音がふりそそぐ。西洋の鐘の音
だ。鐘の音とともに街の喧躁は作者の耳から消える。作者は
、その形のない感動にことばを与えようとする。「夏に芯あ
ればそこより」をさぐり得て、作者の感動は一つの姿を現す
。同じく「芯」の例。「大杉の芯」は普通の語であるが、「
大杉の芯を鳴らして青あらし」と詠まれて、このことばが輝
きを持つ。
 ことばが若々しく躍動している背後には勿論作者の生きる
姿勢がある。作者は生気溢れる緑(緑の意の「青」も)が好
きで、緑を詠む。
  竹の葉・青あらし・若葉・下萌・芽・樫若葉・植田・若
  葉蔭・青野・梅雨のみどり・風青し・葉桜・あざみ・青
  谷・とまと苗・貝割菜・若竹・りんどう・樹の芽・青葉
    ・せんだんの実・山ぼうし・芽吹く・萍
作者はそれらを離れて見ているのではなく、その中にともに
生き生きとして、いる。「妻」「子」「娘」が明るく自然に
詠まれ、そして人の輪はひろがる。
  この人もあの人も居て初句会
  新入生の明るい声で挨拶され
  ドイツ語話し日本語話しきりりと秋冷
「湾岸戦火」「海底深く君ら眠らむ」(宇和島水産高校えひ
め丸)__作者は社会の悲しい出来事から目をそらすことは
ない。
  詩心のない私が勝手なことを書き連ねてしまったが、新
しい世紀でありながらはじめからつまずいて、希望を失って
いるように見える現代にあって、「明るくて深い現代語の俳
句」の可能性をつきつめて行く高橋氏の姿に惜しみない拍手
を送りたい。

  

 


旅衣に思う/高橋正子



炎天を行くわが影に離れずに
「影」については、作者にはいくつかの佳句があり、
得意とするところである。夏の日が真上から射してい
る真昼間を歩く影は、小さく濃く、足元から離れるこ
とをしない。「離れない影」に痩せ身の作者の意志力
が読み取れる。

いく匹も蝶遊ばせて樹の空間
現代詩的な句である。作者は現代詩や小説も幾編か成
しているが、その傾向の作品といえる。信之俳句は、
韻律において独特で、五-七-五の定型のリズムに対し
て、大陸的、現代音楽的要素が内在的にある。この句
では、樹の空間の涼しさのなかに舞う蝶をまるで異空
間のような青い世界に描いている。

ござ敷いてその上に花影を置く
平成二年の作だが、この年の夏には、家族でドイツを
訪問することになっていた。その春に、愛媛大学のド
イツ語教室の先生方と、わが家の裏手の桜の下で花見
の宴を開いたときの作で、桜の下に茣蓙を敷いた。敷
いたばかりの茣蓙には、満開の桜の影が映ったという
のである。このときは、子どもたちも嬉しくて、到着
の遅れたライネルト先生を迎えるのに息子は、自転車
で家の周りをぐるぐる廻ったり、一年生であった娘も
「ごちそうにさくらの花びらふってくる」の句を作り
大変喜んだ。急逝された土屋明人先生が、博多の明太
子と「緑川」というお酒を持ってこられたりと、思い
出深い花見であった。今、その花影は、いんいんとし
て作者の胸にあることであろう。

 自由市場
尾びれ背びれ薄暑の水をしたたらす
大連外国語大学に集中講義で出かけた際の、大連の市
場での光景だが、大きな魚であろう。尾びれからも、
背びれからも水が耀き滴れて市場の活気と自由さが感
じ取れる。「尾びれ」、「背びれ」と区別する見方、
ぴちぴちした様子を喜ぶあたりは、作者本来の活力の
所為と、薄暑のふるさと、アカシヤの大連を訪ねて自
分を取り戻した所のなせるところと思う。

花蜜柑匂うインターネットの静かな夜
ウィンドウズ95ができ、パソコンが一般に普及しは
じめた。パソコンは作者がもっとも得意とするところ
で、夜も昼もパソコンに打ち込んで、画期的なCD-ROM
「ひねもす俳句工房」や、「インターネット俳句セン
ター」という水煙の膨大なホームページを作成をした
ころの作。インターネットは、ただパソコンのディス
クが廻るしずかな音のなかで行われる。蜜柑の花が匂
うころには、夜も窓をあけての仕事となって、しずか
な夜のインターネットの仕事にも、精神の清々しさが
感じられる。

水笛の竹と水との涼しい音
水笛は、おそらく小学生の息子が吹いていたものであ
ろうと思うが、竹に水を入れて吹くときれいな澄んだ
音がでる。その音色は、水の音とも、竹の音とも思え
るものである。ささやかな楽しみが生活にあった。

ふところに梅の小枝を匂わせ帰る
近くに散歩に出かけ、梅の小枝を折り取ってポケット
にでも入れて、手は空にしていたのだろう。ふところ
の梅の匂いが清々しく飄逸なところがある。

赤とんぼ群れる辺りの空気がきれい
口語表現が新鮮な句で、秋の空気を「群れる辺り」と
いう見定めた具体であらわし、空気の透明感を表出し
た。「きれい」という平明な語で赤とんぼが読者に近
づき、羽の透明感を読者によく感じさせてくれている。

刈田の上の空までが何もない
刈田の上の空のひろびろとした様子を言ったもので、
何もないあっけらかんとした自由さが詠まれている。
「実」としての「空(くう)」が、感じ取られている。

  

 


「空の青」に思う/高橋正子



  雪すべて降らせて戻る空の青

 本句集の題名ともなった「空の青」。雪雲が
雪をすっかり降らせてしまって、空には、何に
もなくなって、すっきりとした青色だけが残っ
た。その空の、深い、吸い込まれそうな透明な
青が空の本質を言いえている。

  春愁やあご髭があればとなでてみる

 作者は女性であるから、春愁の晴れない気分
に、このようにずばりと言い切って、なかなか
大胆である。捕らわれが無いというか、自由と
いうか、驚かされるし、愉快である。あご髭が
あれば春愁と決別できるかもしれないという心
情は、一方で、自己を意識した女性のデリカシ
ーの現われでもある。

  セザンヌの林檎の尻の固きかな

 作者は、上野の国立博物館に勤めた経験があ
り、美術に関する造詣が深い。セザンヌは、林
檎が腐ってまでも部屋に置き、その変化する色
を観察したという。また、野に出かけるときは
詩集を持って行って出かけたというセザンヌの
、自然をよく観察した微妙で静かな色のなかに
、林檎の固い尻はしっかりと見届けられて、透
き通るような生き生きした色で描き表されてい
る。それを句として新たに林檎の「生」を描い
たのは見事である。

  外国への荷物にそえし紙風船

 作者は、外国にも多くの友人がおられる。そ
ういった人に送る荷物に日本の紙風船を添えて
送る心遣いが詩人である。紙というもの、いろ
いろの色、器用に張り合わされてつくられたも
の。こういう諸々の詩人の好む日本の情緒を含
む紙風船は、外国に住む人への心添えに相応し
いものである。

  サラサラと生きるのが良し星祭る

 「サラサラと」は、風にさやぐ七夕笹の鳴る
音から発露された心情であろう。そのように、
さやかにサラサラと生きるのを願う作者は、少
女のように星を祭る。俗世を離れたさやかな世
界に住むものの句の世界である。

  とんぼうの視野に己を映さずに

 とんぼの大きな目は、三六〇度ぐらいの視野
があると思えそうだ。なんと広い野原や空を見
ているんだろう。だが、そんな視野にも自分自
身は、入らないようだ。鏡などではなく自分を
自分自身の目で見てみたいものである。


  白桃の箱の静かな香りかな

 白桃の並んだ箱には、手を触れがたい。それ
を見る目に、しずかな香りが漂ってくる。触れ
がたくしずかな物の香りを「香りかな」で止め
率直に詠嘆した。

  白百合の富士の裾野咲きにけり

 富士の裾野の高原は、日差しも瀟洒に、少し
黄ばんで感じられる。そこの松林に白百合が細
い茎に白い花をつけている景色だろうが、高原
らしい清らかさは作者に通じる。 

  朝市やぶどうの葉に乗せぶどう売る

 朝市で売られているぶどうの露けさが、「ぶ
どうの葉に乗せ」で十分に詠まれている。ぶど
うの葉の切れ込みや、少し枯れかけた色合いな
ど、絵心を誘われる。

  もみじ葉の触れ合う音も降りてきぬ 

 音を聴く確かさ、空間を感じる確かさがある
。

  

水煙ネット