インターネット俳句センター


■書評/高橋正子■

V. E. フランクル著/霜山徳璽訳『夜と霧』/みすず書房2000.2.15刊
小野圭一朗著『句碑を訪ねて歩くおくのほそ道』/朝日文庫平成15年1月新刊
梅津信幸著『あなたはコンピューターを理解していますか?』/技術評論社平成14年11月新刊
斉藤啓一著『フランクルに学ぶ』日本教文社/平成12年11月刊
高田敏子著『詩の世界』ポプラ社/1996年4月刊
西垣 脩著『西垣 脩句集』角川書店昭和54年6月刊
藤田真一著『蕪村』岩波新書平成12年12月刊
西垣通著『IT革命』岩波新書/平成13年5月刊
服部桂著『メディアの預言者』廣済堂出版/平成13年5月刊




■「夜と霧」V. E. フランクル著/霜山徳璽訳■ 
(みすず書房 /定価1800円・ 208ページ・2000.2.15 新装第24刷)
 
「夜と霧」は、ナチスの強制収容所における精神学者の体験の記録である
が、世界のロングセラーとして600万を越える読者に読み継がれている
という。20世紀が後世に残す不幸が生んだ故の偉大な本といえる。原著
の初版は1947年、日本語の初版は1956年の霜山徳璽訳でみすず書房から出
版。その後著者は、1977年に手を加えた改訂版を出している。
※1977年の改定版の訳は、2002年池田香代子(ドイツ文学翻訳家)の翻訳
でやはりみすず書房から出版された。(四六判176頁定価1500円)

著者のフランクルは、ウィーンで生まれた心理学者で、「人間が存在する
ことの意味への意志を重視し、心理療法に活かすという、実存分析やロゴ
テラピーと称される独自の理論を展開した。(みすず書房HPより)」来日
もしていて、1997年92歳でこの世を去った。彼の死により一時代が終わっ
たとするものがいるなかで、世代を超えて読み継がれたいとの願いから原
著1977年版にもとづき、昨年2002年に、池田香代子が翻訳を出した。どの
版にしろ、その意義を認識する必要があるのではないだろうか。人間の偉
大さ、崇高さと悲惨さを描いた「言語を絶する感動」に触れておくことは
、価値観の多様化する時代に自分の存在を明らかに確認させてくれ、彫り
深く人間存在の疑問に答えてくれると思える。

原著にはないが、全ページ数の3分の1を占める解説がはじめにあって、
強制収容所に関するおぞましい資料が掲載されている。終わりには、薪の
粗朶ように積まれた人間の骨やここに書くのははばかられる写真や絵があ
る。しかし、この恐ろしさに目を瞑ってはいけない。これらの写真や資料
にかかわらず、本書の読後は、中村光夫がいうように、意外にもさわやか
なのである。絶望のなかにも忘れないトーマスマンいう「フモール」。自
分の話がお説教になってはいけないといって引用されるリルケの詩、ニー
チェのこと。凍傷で崩れた足や飢餓でよろめきながらもデューラーの絵の
ようだと夕焼けに集まる収容所の囚人たち。死ぬ間際のブルジョア娘が、
収容所の窓から見えるカスターニエの木に語ることによって気づく人間の
深さとやすらかな心。カスターニエの木陰の椅子。多くの悲惨のなかで、
これが極限状態に置かれた人間のとりうる態度だろうかと思われる浄化さ
れた場面に遭遇する。心理学者として観察した人間の悲惨なそして偉大な
描写の一々から、この翻訳書が解説にあげた資料とは、同じ事実をもとと
しながら違うものになっている点をよくよく読まなければいけない。「私
とは、歴史とは、社会とは、人間とはなにか」の問いに正面から、そして
はるかに深いところより、ゆるぎなく支え、向き合ってくれる書である。

私のベルリン滞在中の俳句、
  カスターニエの青い実曇天よりもげば
のカスターニエが、リンデン以上にここの人たちに語りかけた木であるこ
とを知って、この句にいっそう愛着を持つようになった。(2003.1.26)

■「句碑を訪ねて歩くおくのほそ道」小野圭一朗著■ 
(朝日文庫/朝日新聞社・222ページ・560円・2003.1.30発行)

  芭蕉の「おくのほそ道」にある句は五十句で、句碑のないのは、一
句のみということである。深川芭蕉記念館にある句碑「草の戸も住み替
る代ぞ雛の家」から、「おくのほそ道」の結びの地である大垣にある「
蛤のふたみに別れ行く秋ぞ」までの四十九句の句碑を実地に訪ねての句
碑案内であって労作である。句の解説、句碑建立の経緯、句碑の形状、
所在地、アクセスなどに加えて、写真、手書きの地図がある。句の解説
は本格的であるので、この書を頼りにすれば、ひとり、心まかせに句碑
を訪ねても見残すようなことは少ないであろうし、句碑を訪ねるという
なるだけ小さい目当てがあれば、俳句も作りやすいものであろう。ただ
、近年、建られたものには、風情のないものもあり、その指摘もあるが、
が、「おくのほそ道」の四十九句の句碑が揃うのは意義があり壮観であ
る。

 芭蕉が、「おくのほそ道」の長旅を思い立ったのは、古歌に詠まれた
歌枕を訪ねて先人の詩情に触れることがひとつにはあったといわれてい
る。「芭蕉研究は、精微を極めている(尾形仂)」と言われ、書物で細
かに知ることもできるが、良い句碑を訪ねるよさは、その地が変貌して
いようとも、句が詠まれた地を訪ね、その土地の空気に触れ、風景の質
感を感じて、芭蕉の詩情に深く触れられるところにある。この書の紹介
で、もっとも訪ねてみたいと思えるのは、栃木県那須町芦野の「田一枚
植ゑて立ち去る柳かな」である。深川芭蕉記念館の句碑についての文は
、平成12年4月29日、水煙200号記念大会を芭蕉記念館で行った
折に、句碑、隅田川はむろん、小名木川近辺、清洲橋なども散策したと
ころなので、納得ゆく文である。(2003.1.25)

■「あなたはコンピューターを理解していますか?」梅津信幸著■ 
(技術評論社・287ページ・1780円)

「この本はコンピューターそのもについて真正面から取り組む。いきなり出て
くるのが、コンピューターの核心にある情報とデータの違いという話だ。うひ
ゃあ、このぼくですらネグった、いちばんむずかしいところなのに。」

以上は、平成14年12月8日「朝日新聞」の本書への書評の一部である。評者は、
山形浩生という方で、コンピューターに詳しい評論家であるらしい。

私は、コンピューターを使う多くの人にこの本を読んで欲しいと思っている。
コンピューターを使う人の教養といってもいい本である。だが、こういう本を
、専門家ではない普通の人が、読むにはどうしたらよいかという問題がまず持
ち上がる。もちろん、専門家でないものにもわかるように、身近な具体的例か
ら抽象的理論へと導く過程が、絵、図式、平易な言葉などで示されているから
、難解というわけではない。理解するとは、「具体から抽象へ、抽象から具体
へ」の還元が十分でない限り、理解できたとは言えないという筆者の持論があ
るからである。

0章から始まるこの本は、初めは楽しそうな絵に反して読みづらい。コンピュ
ーターの核心から入るということもあるが、それよりも、1、2章を読むうち
に湧く、普通の人間が思う人間的な疑問で、頭がややこしくなり始めるからだ
。自分自身に疑問が湧いたら、それは、それで決してそれを忘れるわけではな
いが脇においてその疑問は今は考えないことである。筆者の案内する通りに読
んでいけば、3章あたりからは、慣れて理解しやすく楽しくなる。疑問を脇に
置く理由は、コンピューターが、数学だけでなく、哲学、論理学、心理学その
他多くの深いものを含んでいるから、途中でそれを考えはじめると、まず収拾
がつかなくなるからである。

では、その内容について。
この本は、コンピューターの使いかたを言っているのではなく、コンピュータ
ーの核心の思想についての本である。なぜ、俳句にコンピューターかというと
、現実水煙の多くの俳句は、コンピューターを通して送られている。句会も成
立し、雑誌として毎月刊行されている。コンピューターを理解することなく、
水煙の俳句が成立すると言えるかどうか、考えてみる必要がある。(断ってお
くが、知識や技術に分け入れられるコンピューターの使い方、たとえば、ワー
プロ機能の使い方、メール機能の使い方と俳句とを繋げて考えるのではない。)

「コンピューターは情報をいじるもの」といいう大枠の前提からはじまって、
「情報とデータの違い」の理解や「インターフェースの問題」、「未来をどう
デザインするか」など興味のつきない話題がある。身近に引き寄せて言えば、
内容の濃さ、重要さ、情報のやり取りとはどういうことなのかという、きわめ
て俳句的要素をもった思想といえる。「内容の濃さ重要さ」は、言葉でいえば
エッセンスである。俳句は、言葉のエッセンスである。情報のやり取り、コミ
ニュケーションは句会や、読み手となる。この本が書き記すコンピューターの
思想から、俳句を見てみる楽しみが沢山見つかる。虚子の「低回趣味」は、は
っきりとコンピューター思想に理論づけられるのではないかということも読み
取れる。俳句とコンピューターは遠くて近い、切っても切り離せない関係があ
るように思える。未来をデザインした俳句が生まれる可能性も大いにあるとい
うことを、この本を読んで俳句作家なら考えるであろう。
(高橋正子 2002/12/14)

【斉藤啓一著『フランクルに学ぶ』日本教文社/平成12年11月刊】
フランクルは、「夜と霧」(原題「強制収容所における一心理学者の体験」)
の著者としてご存知のことと思う。「夜と霧」は、ナチの強制収容所で目の当
たりにした、極限状態の人間の姿を科学者として冷静な筆致で描いて、人々の
感動を得た本である。その著者であるフランクルの思想についての入門書であ
る。本来なら、フランクルの著書を挙げあるべきであろうが、フランクルのおお
よそを掴むために、副題の「生きる意味を発見する30章」が示す理由からも
、この書を先ず推薦する。(本書には、フランクルの著書も紹介されている。
)現代社会の閉塞感、不条理などから、人は生きる意味を失いがちといわれる
が、この問題の解決は、緊急の課題のように思われる。それに対する何らかの
答えが、フランクルの思想にあるように思えるのである。つまり、極限状態か
ら観察された人間の姿に、人間の「存在」の意味を、説得力をもって導きだし
ているからである。それが、なんであるかお読みいただきたい。一方、我々の
携わる俳句は、言葉を制限された詩である。つまり、自らの「存在」を問うの
に、相応しい詩形といってよい。「存在」を満たしているものは、なにか、時
には、考えを巡らしてみるのも、いいのではないか。(高橋正子 2001/7/22)

【高田敏子著『詩の世界』ポプラ社/1996年4月刊】 
最初の刊行は、1972年である。すでに24年経って、詩人である著者も故
人となったが、今読んでも決して古くはない。何度も読んだが、むしろ時代と
ともによさが加わっている。詩について随想風に書かれた10代向きの書であ
る。我々の水煙では「俳句における詩」を問題にすることがよくある。詩とは
なにか。多くの詩や詩に関する本があり、学術的なものから、そうでないもの
まで、程度もピンからキリまである。 その中で、少年少女向きの本は、詩の
入門書として、要所がよくまとめられ、本質も言いえているので、詩の理解の
ために気軽に読めて、大人にも充分応えてくれるものとなっているのではない
か。目次の一部を紹介する。第1章「ものと友達になる心」第2章「常識をこ
えた心」第3章「見えないものまで見る心」第6章「じっと見つめる」 第9
章「真実をみつめて(美しさについて、名まえを忘れて見る)」多くの詩も引
用されているので楽しめる。(2001/7/8 高橋正子)

【西垣 脩著『西垣 脩句集』角川書店/昭和54年6月刊】
大阪・船場生まれの西垣脩は、旧制松山高校では川本臥風指導の「星丘」に参
加した。東大に進み国文学を学び、明治大学の国文学の教授を務めたが、在職
中の昭和53年急逝した。この句集は、死後一年後に出版された。詩人として
も活躍した西垣脩の句は、「清冽」と評されている。その美意識、言葉そのも
の、人間性への信頼に裏打ちされた、その内容がそうである。慈愛に満ちた家
庭の人々が生き生きと詠まれ、詩人特有の孤寥に耐える精神の句や、はるかな
存在を希求する心が、胸を打つ。文学の働きとしての「清冽」は、もし我々が
、広い宇宙に孤寥を感じたり、あるいは、柔和な日々を共に分かち合いたい気
持ちになったとき、大きな励ましと静かな安寧を与えてくれることである。清
冽に生を閉じた、現実の人がいたという事実こそが大切であることも、併せて
教えてくれる。ネット社会に生きる人々の精神を支えるためにも、是非、見直
したい句集である。<麦笛を吹き帰城せりみな死なず/脩>
(2001/6/17 高橋正子)

【藤田真一著『蕪村』岩波新書/平成12年12月刊】
蕪村の魅力について、俳句と画の両方に光を当て、フィールドワークの効いた
綿密な研究を、感性的な言葉で解説している。新書のページ数において、蕪村
の全体像を浮き彫りにした、一味違った蕪村の本である。感性的な言葉による
、蕪村句の抒情の把握は、蕪村研究の新しみであろうし、そこが本書の最大の
魅力といえるのではと思う。また、蕪村の画を、言葉とともに鑑賞できるのも
楽しい。(高橋正子 2001/6/17)

【西垣通著『IT革命』岩波新書/平成13年5月刊】
ブロードバンドの時代を迎えるのはまもなくであろうが、本書はそれについて
、考察がなされている。ブロードバンド時代を迎える私たちの関心は、なんで
あろうか。都市空間や居住空間の変化、従来の共同体の変化など、具体的に考
えてみれば、多くの疑問に当たる。それを考えて見るのも実際的ではなかろう
か。第四章「オンライン共同体はできるか」は、水煙ネットの進むべき方向の
良い示唆となっているので、ぜひお読みいただきたい。(高橋正子 2001/6/17)

【服部 桂著『メディアの預言者』廣済堂出版/平成13年5月刊】
著者は、朝日新聞のデジタル編集部のかた。4月に新宿の書店で見つけて目に
ついて読んだが、6月17日(日)の朝日新聞にも書評が載っている。「メデ
ィア論」のマクルーハンを再考しようというもの。私たちは、メディアの本質
について、どれほど理解しているか、自分を振り返って思う。メディアリテラ
シーが叫ばれる中、自分を表現し、伝えるメディアの本質を、しっかり捉えて
おきたいと思う。未来社会に生きる子どもたちのことを思えば、年の功で、多
少なりともメディアとはなんなのかを伝えおく必要があるのではないだろうか
。ちなみに、マクルーハンは、英文学者でもある。彼が、関心を示した詩人の
中に、T.S.エリオット、エズラ・パウンド、ウィリアム・ブレイクが挙げられ
ているが、奇しくも、英語俳句を考察する上で、私が関心を寄せた詩人である
のは、どうしたことか。(高橋正子 2001/6/17)


戻る